
やかに私の脳裏に蘇ってくるのです。
長男が生まれて六ヵ月位経ったころだったでしようか。主人が、「どうも音への反応が鈍いようだ」と心配顔で切り出しました。私も、何となく気になっていただけにドキリとしました。そこで、とうとう、主人の夏休みを利用して、東京・世田谷の国立小児科センターへ行きました。
「三十パーセントの反応があるから根気づよく治療したら可能性はあるでしよう」という医師の診断でその可能性を信じ、鹿児島での入院を決めました。長男の聴力障害の発端は、生後三ヵ月ぐらいのころ、どうしたことか呼吸がスムーズに流れなくて、息が途切れ途切れになるのです。急いで病院に駆けつけ診察を受けましたが、「気にしなくてよい」ということでした。それでも傍らで聞いている者が、とても苦しくなるような呼吸でした。
それが、三ヵ月以上も続いているので、そのせいで耳に影響が出て、一時的に麻痺したに違いないと、勝手に決め込み、医師の言葉をそのまま信じていた私たちでした。
入院のため主人とは別居し、主人は自炊を余儀なくされました。この長男のために、という共通の思いがありましたので大して苦にはなりませんでした。
「必ず治るんだ。必ず治してみせる」と自分に言い聞かせ、自分を励ましながらも、「溺れる物は藁にもすがる」気持ちの日々を送りました。結果は、私にとって冷たく無残、まことに空しい努力でした。
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